僕は海外の大手デザイン会社で勤務経験のあるオーストラリア人クリエイターからデザインを学び、現在はWebデザイナーとして働きながら、未来電子のインターン生に対してデザインコースの指導を行っています。
ちなみに僕もギリギリインターン生です。
普段はWebデザインにまつわる業務をしており、その他にデザインに興味のあるインターン生に対して指導を行っていますが、この「指導する」という行為は恐ろしく難しい。
今回は僕に立ちはだかった今まででダントツで難しい「教える」という強烈な課題と、それによって得た極端な自論についての記事を書くので、デザインにまつわる内容はほぼなさそうです。
コース指導開始時の“課題と焦り”
デザインコースを開始した当初は、
「やることだけ言うから、あとは自主的に進めていってくれ」
「サポートはするけど、やるかやらんかは自分で勝手にしたらええ」
といったスタンスでした。
当然、受講生は混乱し「難しい」「やり方わからん」と当たり前のことが起こりました。これは当たり前のことで当たり前すぎることですけど、当時の自分には「???」で何が起こってるんや状態になりました。
これは、自分がデザインを勉強し始めた時に被らせて考えていたからです。
自分ならこう教えられたいという妄想を押し付けたゴミのカリキュラムを作ってしまっていたようです。
このままじゃ誰も育たんと思ったのは、コース指導開始から1ヶ月ほどしてから。
誰にどんなモチベーションがあるのか分からず、自分の業務で爆発しそうでなかなか指導に手が回っていない状態で、ちゃんと進んでいるのかも目に見えてなかった頃、やっと感じました。
「おいおい、エグいんちゃんこれ、、」
課題の解決策、禁じ手とは?
そこから徐々にオンラインでのコミュニケーションを増やしていくことにしました。
受講生たちがそれに気づいたかどうかはわかりませんが、こちら側から出社時以外もフィードバック、状況確認といった管理にできるだけ時間を割くようにしました。
彼女とデートしながらも、ポチポチ返信をしているような状態です。
それでも「どれくらいのモチベーションを持たせられているのか」、「やっていることは実際楽しいのか」が感じにくい状況で、まだ自分の妄想を押し付けているんじゃないかと感じることが稀にありました。
ここで禁じ手を使います。
「平日の10:00~19:00以外の会社にいる時間帯は全て差し上げるから好きに来てくれ。」
平日が忙しい場合は土日に、土日にあまりやる気の出ない場合は平日夜に、とその時々のモチベーションや忙しさに応じて頻度に抑揚のある「出社命令」が出されるようになりました。
恐ろしいです。
ただこれが僕的にはかなり良かったです。
どのくらいわかっていないのか、今感情的にはどんな時期なのか、みんなが今どんな生活スケジュールなのかが良く見えたからです。
そして、いい感じになってきたと思った最中、すぐに会いたくなかった大問題に出会います。
直面した大問題、指導の必要条件とは
ここでようやく受講生の横に座って話をしながら、手を動かしながらコミュニケーションをとるようになりました。口頭でデザインの考え方や理論・原則について話そうとします。
なぜそれが悪いのか説明しようとしますが、びっくりするほど「指導力」が足りない。
もう「結局はええ感じに作るねん。」という最悪のアドバイスが口から出そうになるのをこらえて、プロとどう違うのかを要素ごとに切り分けて、必要な考え方を伝えていきました。
ここで最高に難しいのが一人ひとり情報の捉え方がまったく違うということです。
これは以前教わった、心理学を応用した営業手法の中で出てきた話ですが、
「同じ言い方をしても、それが正しい伝え方であったかどうかは、その言い方にではなく相手側に依存する」ということと同じです。要するに相手にあった話し方、伝え方で教えてあげるのが正しい情報の伝え方だということです。
“指導する・教育をする”ということにおいて必要な条件は、
まずは「教えるモノを持っている」ということですが、
もう一つは「どう教えるかを知っている」ということです。
こんなことはこの記事で言われるまでもない当然のことですが、世の中の教育の多くがこれをすっ飛ばして「教えるモノを持っている」ということだけを重要視します。
学校の先生99%いらない
では、この「どう教えるかを知っている」のはどれくらいの割合の人間でしょうか。
教育に対して真剣に考えを巡らし、日々改善と問題分析を行いながら多大な時間的教育コストを払える人間はどれくらいいるのでしょうか。
僕は大学の講義の中で、教科書を持ちながらひたすら学生の前で届かない声を発している禿げた先生を「音のなるおっさん」と呼ぶことにしました。これは皮肉を込めたわけでもこき下ろすわけでもなく、どう教えるかを知らない人がなぜか指導を行っている「不可思議な空間」を強く感じたためです。
これは極端な例ですが、教育が得意だと他人からも認められている教育者というのはとんでもなく少ないと思います。
こういった考えから、僕は「学校の先生99%いらない」と大変偏った意見を持つに至りました。
教えるって難しくて、死ぬほどおもろい
この辛く難しい「教える」という行為ですが、続けていると学生が持ってきた物に「お。」と思わされる瞬間が増え、これは単純に死ぬほどおもろいです。ただもっと良くなってほしいという気持ちから、褒めるより先に「ここ直して。」が口から出るときはムッとされます。未だにこの過ちは繰り返しがちです。
このような日々のモチベーションが自分自身の能力を引き上げることにつながり、少なくとも受講生の倍は練習しようと考えるようになりました。多くの時間を使っているために、自分自身の能力の向上もそれ相応に早くなっているように感じます。
能力の向上に意欲的な方は敢えて教えるという環境を作ってみれば、「持っている知識が整理される」ということ以上のリターンが得られると思います。
教育をするということにひたむきに向き合い、真剣に取り組んでおりますのでデザインをがっつり勉強したいと考えている学生はどうぞご連絡ください。
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