先日、「構造的無知」という言葉を知りました。
この構造的無知に関する教訓を含んだ昔話と、
学生がよく発する「将来への漠然とした不安」という言葉。
僕自身、以前までこういったうっすらとした不安を感じていたことがありましたが、現在ではやるべきこと、やりたいことがかなり明確になり仕事に対して「没頭」に近い状態にあります。
今回この構造的無知を理解することで「将来への漠然とした不安」という言葉が僕の中である程度腑に落ちたので記事にしました。
どこかの誰かが不安な状況を打開するための何かしらの糸口になればいいという超真面目記事です。
ある丁稚奉公の話
- 何かと悪さを企てる丁稚奉公がいました。
- 水飴を手に入れた大名が外出の際、この丁稚奉公に食べられないように水飴のことを毒であると説明。
- 丁稚奉公は毒ではなく水飴であることを知っており、すべて舐めきってしまいます。
- その後、大名が大切にしていた家宝を壊します。
- 大名が帰宅後、家宝を壊してしまったため死んで詫びるために毒をすべて舐めたと説明。
ざっくりとこんな流れで、とんちの効いた話として捉えていましたが、実はこの話には続きがあります。大名はこの丁稚奉公が水飴を食べた口実作りとして家宝を壊したことまで理解していた、という結末です。
無意識の無知
ソクラテスの「無知の知」という非常に有名な言葉がありますが、この丁稚奉公の話しを理解するにはもう一つ、精神医学者であるフロイトという人物の提唱した「無意識」という概念が必要になります。
フロイトは無意識を一つの部屋の中にいる人物とその外にいる人物で説明しました。
部屋の中にいる人物は部屋の中が全ての世界だと思い込み、部屋の外がどうなっているかを知らないということにさえ気づくことができない状態です。
つまり外のことに関して無知であるということが意識できないのです。
この無意識の無知を「構造的無知」と呼びます。
丁稚奉公は部屋の中で「あれはこうだ」「これはこうなっている」と様々な考えを巡らしますが、部屋の外にいる大名は丁稚奉公が作ったこのストーリーを外側から冷静に理解していた、というのがこの話しの伝えたい教訓です。
構造的無知であって当然
構造的無知であるというのは、無知であったと意識できて初めて気付きます。
これはつまり過去の自分では気付けなかったと理解するしかなく、今の自分と未来の自分を比較して何が意識できていないのかを知ることは不可能なので、比較対象は過去の自分と今の自分でしか成り立ちません。
要するにたいていの知識においては「現時点で何がわかってないのかわかってなくて当然」だと言えます。
日本の学生と社会と構造的無知
日本では学生と社会人との間に明確すぎる境界線があります。
在学期間の3月までが学生で、4月から社会人です。
これは部屋の内側と外側で明確に分けられている状態で、学生が社会に対して無知であるということを意識できない構造になっています。こういった構造ではありますが、敏感な学生は「どうやら外に世界がある」ということを意識できます。
これより、今までの世界とは違う世界に対してうっすらと恐怖心を抱き始めた状態で口から出るのが「将来への漠然とした不安」であるように思います。
不安を払拭するためのアクション
では、この構造的無知で言う部屋の外側がどうなっているのかを知るための方法は一つしかなく部屋の外側から内側を見てみること。丁稚奉公の状態ではなく、大名の立場から見てみること。学生の立場でなく、社会人としての立場から見てみること。
これを実現できればこの漠然とした不安が消え去り、さらにはやることが明確になることで何かに没頭する状態になるのではないかと考えます。
将来が不安でどうしようと思う学生にとっての外側の世界というのは、ほとんどの場合は「社会」であるように思うため、どんな形であ社会人に近い環境に自分を置いてみることで解消できるものかもしれません。