小学生の時、クラス全員で百マス計算をした。
そのとき担任の先生は、右手にしっかりとストップウォッチを持って、私たちのうち誰が一番に手を挙げるのか、まだかまだかと待ち望んでいたように思う。
一体誰が一番に、「はいっ」という声を上げるか。
私は、マスの中の数字を必死に埋めながら内心とてもヒヤヒヤしていた。自分より先に、誰かが「はい」と手を挙げはしまいかと。
あまり鮮明には覚えていないけれど、当時の私は足し算ならば30秒切らないうちに計算を終えられていたと思う。
だから、その日もきっと「早く手を挙げたい」とドキドキしながら計算をして、ようやく最後のマスまで鉛筆の先が辿り着いた時、クラスメイトの中で一番早く声を挙げられて心底安堵していたんだと思う。
だって、一番になるために毎日家で百マス計算を解いていたのだから。
就活中に覚えたある違和感
私はいま、大学4年生でようやく就職活動を終えた段階にいる。
就活について思うところは人それぞれあると思うが、私はこう思う。
“就職活動”ってすごい。
就活を始めたのは昨年の今頃の時期だと思うのだけれど、何がすごいかって、この一年で自分の中の価値観とか、これから何をして生きていきたいかとか、一番大事なものは何か、という考えが短い間にコロッコロ変わって、それはもう自分でもついていけなくなるぐらい、心が動かされたことだ。
“心が動く”と書くと、感動する、みたいなニュアンスになってしまうけど、決してそうではない。
誰にでも、今まで少なくとも二十数年間生きてきた中で、「自分は絶対にこういう人だ」という確固たる自分がいると思う。
それは何も難しいことではなく、例えばマイペース・几帳面・怠惰…など、簡単な性格に関することだ。
もちろん私にも、「自分はこういう人間だ」と示せる性質があった。
「鈴木さんは、自分がどんな性格と思いますか?」
就職活動の面接で、面接官の方にこう聞かれたことがある。
今時こんな露骨な質問をするものなんだなと驚きつつ、私は素直にこう答える。
「負けず嫌いだと思います」
「へえ、そんなんだ。じゃあその負けず嫌いな性格は、何歳ごろにはっきり自覚した?」
何歳ごろ…?
うーん、確か4歳でピアノを習い始めたころかなあ。周りの子たちに負けなくないって思って練習してたし…。
「なるほど。確かにそれは負けず嫌いかもしれませんね」
この時まで、私は面接官に話したように、自分自身を負けず嫌いだと確かに信じていたと思う。
でも、彼の次の言葉に、私ははっきりとした違和感を覚えた。
「じゃあさ、GDでは周りの意見を自分の意見に持っていきたくなるんじゃない?」
GDとはグループディスカッション選考のことで、就職活動の場面においてはよく用いられる選考方法だ。
そのGDでは、進行役とか周りを気遣う役、進行役の隣で矛盾を突いて最終的に最善の結論に導くような頭の良い役回りがあるが、私はそのどの役割を担ったとしても、「自分の意見に従わせたい」と思ったことは一度もなかった。
だから、面接官の言う「負けず嫌い」は、私が思っていた「負けず嫌い」とは違っていたし、そもそも自分は本当に負けず嫌いなんだろうか、という疑問が生まれたのだ。
「すごいね」は呪いの言葉
就活を通して見えてきたこと。
私の性格は、負けず嫌いとはちょっと違うのかもしれないということ。
でも、「他人よりなんでも上手くこなしたい」という気持ちが昔からあったのは確かだ。
周りの子たちよりも早くピアノが上手くなりたい。
百マス計算で一番に手を挙げたい。
成績順位表の上位に名前を載せたい。
これらの思いは、一体どこから来ていたんだろうか。
もしかしたら私は、
ピアノの先生から、
担任の先生から、
クラスの友達から、
ただ「すごいね」って言われたかっただけなのかも―そう思うと、とても幼稚でくだらなくて、自分が嫌になった。
要するに私は、褒められたかったのだ。褒められる方が、叱咤激励されるより私にとってはやる気が起こるから。
ただ、こんな気持ちに今更気づいたところで、これまで貯めてきた「すごいね」を一掃するのは大変だ。
鈴木さんならできるよ。
就活中、色んな人にこうやって励ましてもらった。
私は元々スーパーウルトラネガティブ思考だから、「あなたなら大丈夫」と言われるほどに、不安になるのだ。
皆がすごいって思ってくれて、期待してくれている。
だけどもし、それができなかったら…?
皆が信じてくれた自分を、自分が一番信じられなくなるんじゃないか。
本当に、意味が分からないほどネガティブですね(笑)
でも、私は実際こういう人間だった。
「すごいね」って言われるために頑張ったはずなのに、いざ他人からその言葉をもらうと、たちまちプレッシャーに変わってしまうんだ。
だったら、「すごいね」なんて言葉に、どんな価値があるんだろう。
未来電子のインターンで気づいた、ある言葉の価値
未来電子で長期インターンを始めた時も、最初は社員さんや他のインターン生から認めてもらいたいと思っていた。けれど、今は「認めてもらいたい」「褒められたい」という気持ちで仕事をすることはなくなった。というか、そんな気持ちで仕事をしていないことに気づいたのだ。
じゃあ、どんな思いで働いているのかをじっくり考えてみる。
特に何か派手なことをしたわけではないがコツコツ仕事をするのが好きな私は、未来電子のインターンで、
・どんなに忙しくても毎月の目標は必ず達成する
・期待値よりワンランク上の仕事の質を目指す
ということを意識してマーケティングの仕事に専念している。
また、今は社内広報の一環として隔月で社内報を発行しているが、これはあくまで縁の下の力持ち。直接的に会社の利益がバンバン上がるような取り組みではないと思っている。だから、あまり表に取り上げてもらわなくても良い。むしろ、「気づいたらそこにあった」ぐらいがちょうどいい。
さて、これらの仕事をしたところで、誰かから「すごいね」と言われる場面は少ないと思う。
でも、こういう当たり前のこと+自分の仕事に付加価値を加えることで、色んな人からこう言われるようになった。
「マーケティング、いつも助かってます。ありがとう」
「社内報に取り上げてもらったおかげで、たくさんの人から話しかけてもらえました」
至る所から降ってきたのは、そんな感謝の言葉たち。
「ありがとう」と言われた時、心底「インターンをしていて良かった」と思えたのだ。
私はその一つ一つを、誰がどんな表情で「ありがとう」と言ってくれたかを、全部覚えている。
ああ、これが、私が本当に価値があると思っていたものなんだなと分かったから。
終わりに
負けず嫌いだと思っていた自分。
なぜ負けず嫌いだと思っていたかと言うと、他人より何かを上手にこなすことで、「褒められる」から。褒められたら、その分やる気が上がると思っていた。しかし実際、モチベーションは上がった。
ピアノでは周りの子よりも教本何冊分も早く先に進んだ。
百マス計算がどんどん速くなった。
苦手科目でも、テストで良い点数がとれるようになった。
でも、そうやって手に入れた誰かの「すごいね」という言葉は、私にとって呪いだった。
「すごいね」を手に入れるために頑張ったって、どんどん自分を追い詰めて疲れるだけだった。
けれど、未来電子での長期インターンを通して、自分のモチベーションの源泉は「すごいね」なんて薄っぺらい言葉なんかじゃないことが分かった。
私は、自分が表に出て何かすごいことを成し遂げるよりも、皆が「ありがとう」と言ってくれる仕事ができる人間になりたい。
もちろん、自分から何かを始めて最前線で駆け抜ける人が魅力的でないなんて、これっぽっちも思っていない。
そっちの方が、大体の人にとっては素晴らしいと思っているでしょうし、とても憧れる。
でも私にとっては、他人から「すごいね」と言われる人生なんて、どんなに積み重なったって価値のない、バブル時代の札束と同じだと感じた。
インターンを通して、「ありがとう」を受け取る喜びを学んだから。
これから何をするにも、「ありがとう」を積み重ねて頑張るんだ。
こんなことを気づかせてくれた未来電子に、心の底からありがとう。
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