2021.9.21

毎年毎年呼んでもいないのに夏は来るので、青春について考えてみた

同志社大学 インターン

田中惟織


「暑い」

この言葉だけでせっかくの京都での夏が終わってしまうのも惜しいが、そうなりそうである。

花火を見て「きれい」、祇園祭で「楽しいね」なんて言葉を残してみたかった。

 

コロナウイルスに怒る夏休みも終盤に入り、YouTubeで本田翼かわいいなぁ、と思って気持ちを和ませていると、ふとあの不朽の迷作『アオハライド』を思い出して腹が立つことがある。

 

□近頃の恋愛映画

 

『アオハライド』が先駆けかは知らないが、そこからドッと青春映画なるものが生み出され続けた。

だいたいに当てはまるのが、それを見た人々が“青春=恋”と錯覚すること。

 

こんなサブリミナル映画どもは、反省して僕に映画を撮らせるべきだ、と思っていた僕の心が動かされた映画がある。

 

『君の膵臓を食べたい』だ。

全人類、この映画を見たことあるに決まっているので内容は説明しない。

毎回映画を見たり、本を読んだりすると、その影響を受けすぎるほど受けてしまう僕は、一週間近く感傷に浸り、何も手につかなかった。

 

主役がかわいいからというのはあるが、あの死に方に悔いの残らない人はいないだろう。

「作者、ひどすぎる」となぜか著者批判に徹したこともあったし、実際に同じシュチェーションで「僕だったら救えた」なんて考えて平静を保とうとしたりもしていた。

 

いい映画かはわからないが、確実に僕に影響を与えた映画であった。

 

□23歳が思う青春とは 

 

映画の話ではない。

 

ふと、自分の青春を考える。

 

“青春”とあるように、春のように若く元気であるときにしかできないこととしては上出来だと個人的には感心している。

自画自賛を披露したところで、真剣に“青春”とは何か考えていきたい。

 

確かに青春が恋愛と根強い関係があるのは否めない。

しかし、勘違いしてはいけないのが、恋愛は青春の中にあり、それそのものではないということ。

 

部活やバイトに明け暮れくれる日々だって青春だろう。

ましてや、僕が浪人していたとき、高校のときの些細な会話を思い返して、青春を感じた。

大学4回になった今も1回、2回生のころを青春だったなと感じる。

 

つまり、学園祭だなんだ、は頭に残りやすいからピックアップされやすいだけで、普段の何気ない日常も思い返すとあら青春なんてこともざら。

「そのときは気づかない、後になってからしか気づけない」、よく使われるセリフだが、そのとおりである。

 

僕の考える結論として、青春は、高校や大学の若い頃の自分を、少しでもそこから年老いたときに思い返すことで生まれるものだと思う。

 

□青春に乗るな、青春を生み出せ

 

コロナ禍の現代において、青春が奪われたと口にする学生は少なくない。

青春は作り出すもので、受動の姿勢では、残るものは青春ではなくて後悔。

 

今の大学1回生や2回生は、コロナで高校の修学旅行がなくなった人も多いのではないか。

青春は、大学からでも取り戻せる。

大学生になって、「家から出られないからYouTube見よ」、これでは後悔につながるかもしれない。

 

青春は、少しでもそこから年老いたときに思い返すことで生まれるものだ、と述べた。

これらの記憶に共通することは“人”と触れ合うこと。

 

このご時世、直で人と接するのは難しい。

サークルの飲み会や飲食でのバイトの楽しみは少なくなった。

 

だからこそ、この長期インターン。

フルリモートで、家にいながらも人と触れ合える。

大阪や京都などといった関西だけでなく、何キロ離れてるのかもわからない県からのインターン生も多い。

 

□まとめ

 

この記事を読んでいるということは、コロナで失われた青春を取り戻す機会が、様々な人と触れ合える機会が、目の前にあるということ。

 

後悔に進む悔過、このインターンに応募するのか。

選択権はあなたにあります。

 

未来電子のインターンへの応募お待ちしております。


この記事を書いた人

同志社大学インターン

田中惟織