2022.4.23

爆発と爆破について

東北大学 インターン

櫻庭紀暉


爆発と爆破。
この2つの言葉に、誰もが微妙なニュアンスの違いを感じるだろう。
しかし、何が違うのだろうか。
今回はそれを、2人の芸術家・梶井基次郎、岡本太郎を見て論じてみる。
僕は、東北大学経済学部経営学科3年櫻庭と申します。
拙い僕の文章ですが、批判してもらえれば幸いです。

梶井の爆破と岡本の爆発

2人について論じる前に、まずは用語の意味を比較してみる。
・爆破:爆発により、ものが破壊されること
・爆発:物が吹き飛ぶ現象
この言葉の意味というものに、既に違いが現れている。
では、2人について見ていこう。

*梶井の爆破

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた」
この文章から梶井基次郎『檸檬』は始まる。
鬱屈した主人公は、(体調のせいもあるだろうが、)青年特有の世界に対する何か暗い感情に突き動かされて京を歩く。

ふらふら歩いてまず着いたのが果物屋。
そこで、単純な形をしている紡錘形の「檸檬」を見つけ、買う。

その冷たさに心地よさを感じつつ歩いていると、丸善に着く。
画集を読もうとし、本を開いては、読めず、閉じる。
この行為をなんとなくやめられず、本は積み重なり、どうしようもなく主人公は本の山を見つめる。
残ったのは画集の重さによる疲労のみに思われた。

「そうだ」

主人公は奇妙なアイデアを思いつく。
本を積み重ね、その頂点に檸檬を置く。

静寂。
彼はその「作品」に美しさやある種の緊張を覚えていると、第二のアイデアが浮かんだ。

「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう。」
彼は丸善を後にすると、檸檬を爆弾に見立て、気詰まりな丸善が爆破される様子を夢想した。

以上はネットで無料で読めるので、読んでみてください。
僕の簡略化された文章では不十分です。
この作品の良さは文章の美しさでもあり、ぜひ読んで欲しいです。

さて、彼の行ったのは、「爆発」でなく「爆破」である。
これらの違いを端的に説明すると、前者はそれ自体は無目的で、後者はなんらかの恣意性がある点だろう。
彼は青春の鬱屈を、カーンと冴えかかった静寂を、爆破により吹き飛ばし、芸術に仕立て上げたのではないか。

*岡本太郎の爆発

「人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命を突き出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。」
先ほども述べたが、爆発は無目的である。
これは岡本の言う芸術・ひいては人間の生き方の無条件性に通じるところがあるだろう。

爆破とは、解体だったり、戦争だったり、装飾だったりの手段だ。
そしてその現象自体を爆発と呼ぶわけで、僕たちの生は無目的である。
でも生きる。

比較してみる

岡本の論は、はいつくばってでも生きよ、というような人間の生の生々しさを感じる。
一方で梶井には、人生の鬱屈に対置される芸術の美しさというものを感じる。
一致している点を拾い上げてまとめると、どうやら生きるとは綺麗なことではないらしい。
でも、それでも生きねばならぬということなのだろう(梶井は重い結核を患っていた)。

戦後の偉大な作家に、坂口安吾がいる。
「生きよ、堕ちよ」
彼はこう言い、死にきれなかった戦後の若者に生の希望を与えた。

ここにおける面白い論として、坂口と岡本の論は生への渇望という点では同じだが、前者はベクトルが下に、後者は上に向いているという指摘がある。
この論は僕の恩師が語っていたものであり、なるほどと思った。

しかし僕は、これは少し違うとも思っている。
堕落しきったら、残されるのは飛翔である。
共時的には異なる現出のように見えるが、通時的には同じ一連の動作の過程ではないか、と考える。

戦争で死ぬのが美徳とされた時代。
戦後の若者に残ったのは、無目的化された生であった。
しかし、それでも死ぬわけにはいかない。
鬱屈とした感情を携えつつ、一人荒野を歩き、堕落しきる。
すると、太陽に向かって聳えたつ塔を建てたくもなるだろう。

まとめ

以上が爆発と爆破の違いです。
お読みいただきありがとうございました。
最後に、最近面白いと感じた作品を紹介します。
藤本タツキの『さよなら絵梨』です。
ジャンププラスで読めるのでぜひ読んでみてください。


この記事を書いた人

東北大学インターン

櫻庭紀暉